加賀象嵌の歴史は、16世紀末、加賀を支配した前田家が京都方面から技術を導入して始まりました。当初は、武具や馬具などの製造に必須の技術で、加賀象嵌には、武士の魂-刀を飾る様々な刀装金具類と、騎乗の際に足を置く馬具-鐙<あぶみ>の二つの系統がありました。藩は、それぞれ優れた技を持つ者を御細工人に登用し、奨励策によって磨かれた技能は、町方の職人たちにも強い影響を与えて隆盛を極め、加賀象嵌は、加賀特産の金工品として名声を博しました。
しかし、武家社会が崩壊すると象嵌の仕事は激減して多くの象嵌師たちが廃業してゆきます。それでも、政府による1873年のウィーン万国博覧会出品を契機として、海外輸出向けの大型花器などの製作にその力量を発揮しはじめます。こうして加賀象嵌は、これまでとは全く異なる造形として受け継がれ、命脈を保つのです。宗桂会ゆかりの初代山川孝次は、この困難な転換期を生きた加賀象嵌のリーダーの一人として活躍した名匠でした。