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加賀象嵌について

加賀象嵌の特徴

加賀象嵌と肥後象がん、京象嵌

加賀象嵌では、素地表面と象嵌部分を同じ高さにして模様をだすという「平象嵌」という技法を主に用います。表面が平らでなめらかな仕上がりとなります。
また金属素地の文様部分に鏨で掘ったのち、底部を広げる「アリ溝立て」を施し、嵌めた金属が外れないようにしています。

肥後象がんは布目上に切った金属素地の上に別の金属を打ち込みます。剣山のようにギザギザになった表面に金属を喰いこませて外れにくくしています。
京象嵌も金属素地に布目の溝を掘り金銀を打ち込む布目象嵌が特徴ですが、漆を塗って仕上げるのに対し、肥後象がんは塗料を使わず錆び出しと錆止めを施し、油を焼きこみ拭き上げて完成させます。

また肥後象がん、京象嵌ともに、鉄の胎に金銀で模様を描きますが、加賀象嵌は金・銀・銅を組み合わせて作る「色金」という日本独特の合金を用います。金属の配合の割合により、特殊な液につけることで微妙な色の変化があらわれます。

加賀象嵌の歴史

銀象嵌花丸散文鐙 (江戸時代)

加賀象嵌の歴史は、16世紀末、加賀を支配した前田家が京都方面から技術を導入して始まりました。当初は、武具や馬具などの製造に必須の技術で、加賀象嵌には、武士の魂-刀を飾る様々な刀装金具類と、騎乗の際に足を置く馬具-鐙<あぶみ>の二つの系統がありました。藩は、それぞれ優れた技を持つ者を御細工人に登用し、奨励策によって磨かれた技能は、町方の職人たちにも強い影響を与えて隆盛を極め、加賀象嵌は、加賀特産の金工品として名声を博しました。

しかし、武家社会が崩壊すると象嵌の仕事は激減して多くの象嵌師たちが廃業してゆきます。それでも、政府による1873年のウィーン万国博覧会出品を契機として、海外輸出向けの大型花器などの製作にその力量を発揮しはじめます。こうして加賀象嵌は、これまでとは全く異なる造形として受け継がれ、命脈を保つのです。宗桂会ゆかりの初代山川孝次は、この困難な転換期を生きた加賀象嵌のリーダーの一人として活躍した名匠でした。

象嵌パネル「永久に飛ぶ」 (1995年)

昭和の戦後以降の金沢では、後継者が少なく技の継承が心配されていましたが、近年、象嵌に取り組む若い人が少しずつ増えてきています。今後は、これからの時代に相応しい象嵌による創作表現に挑戦する作家たちの新鮮で多彩な活躍が楽しみになってきました。

専門塾のご紹介

象嵌と彫金の技を習得し、伝統技法を次世代へと伝える後継者づくりを目的として1998年6月に「加賀象嵌・彫金専門塾」が開校されました。この専門塾は金沢市の助成のもと、公益財団法人宗桂会が運営を担い、2001年3月には第一期生が卒業をむかえました。現在、受講生は技量別に基礎コース・専門コースに分かれ技術習得に励んでいます。