中川衛「世界の象嵌と加賀象嵌」

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回(最終回)


平成9年に中川 衛氏が象嵌について講演された際の内容をまとめ、シリーズでお届けします。

第4回
金属工芸の歴史、加賀象嵌の歴史
中川 衛氏 金沢美術工芸大学教授
重要無形文化財保持者

世界における金属使用の歴史

  昔、四大文明(エジプト、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河流域)がありましたが、その中のチグリス・ユーフラテス川の上流にあたるトルコのアナトリアの辺りで青銅器を使ったのが、世界で金属使用の初めではないかといわれ、鉄も中国より早いのではないかといわれています。金や銀はエジプトで早くから見られます。ツタンカーメンなどには金が多く使われているのですが、これは金が採れ、それらが軟らかく加工しやすいためそのまま使っていたのです。その後は紀元前3000年頃キプロスから銅や錫がもたらされ、銅と錫を使って合金する方法を知り、多量の青銅器を作ることになります。その時すでに、象嵌を行っていたのですから、私たちは5000年前とあまり変わらないことを今もやっているのです。あと100年たっても同じことをやっているのではないかと思います。

  青銅器が登場したときに、すでに象嵌という技術が用いられ、金属を彫ることができたということから、その当時すでに鉄を知っていたのではないかと思います。チグリス・ユーフラテス文明の上流域に位置するアナトリアに鉄や青銅器の技術があり、そこから中央アジア、ヨーロッパ、アフリカの方へと伝播していったのでしょう。それに比べ中国での金属の使用は、比較的遅いのです。紀元前1500年の夏(か)や商(しょう)と言われた時分に銅の鉱山が発見されました。

  ただし、中国では技術がすごく速く発達したのです。紀元前8世紀頃には、鉄の鍬や鋤、武器などが存在しました。鉄や青銅器を大量につくることを覚えたのです。鍬や鋤は農民のものですが、そういう人々にまで行き渡るほどに、大量につくる技術を身につけていたのではないかと考えられています。


地中海を中心に発達した象嵌

  象嵌は、紀元前3000年頃から見られるようになります。地中海を中心にして象嵌が発達し、あちこちに伝わったと思われます。時代は違いますがスペインのトレドにも象嵌があります。これはイスラム文化の伝播に伴い、地中海の周りを支配した人たちが象嵌なども一緒に伝えたのではないかと思われます。トルコなどにも、地中海貿易によって運ばれた布目象嵌がたくさんあります。イスラム文化の中では、布目象嵌が装飾技法のひとつとして発達し、またステイタスとして使われ、武具、甲冑、刀から調度品や日常の道具(水差し、ボール、皿など)までに使われています。

  ここ5年ほど、象嵌に関する事などで象嵌発祥の地、トルコへ調査をしに行っているのですが、象嵌らしいものは見当たりません。あっても、ほとんどが東部(イラン、パキスタンなど)から来ているもののようです。それがイスタンブールのバザールで売られています。トインドにもあるようです。

  それから、地中海周辺では、象嵌によく似ているのですが黒金(こっきん)という技法があります。日本では昭和の初めの頃にこの技術を持った方が一人いたそうですが、今はいません。現在では地中海周辺だけに見られます。黒金とは、金属の表面を鏨で彫って、その中に銀と鉛と硫黄で合金をつくり、それを彫り、溝に流し込み、その後表面を磨き、文様を浮き上がらせる技法です。銀色のベースの中に黒い模様が出てきて象嵌のような技法が得られます。


加賀象嵌の歴史

  さて日本での金属の登場はいつかというと、中国に比べ1500年ほど差がありますが、弥生時代に銅鐸が出てきます。これが金属に触れたはじめなのです。象嵌に関してはさらに遅く、現在発見されている中では、古墳時代(5〜7世紀)、稲荷山鉄剣の一部に金が使われています。また室町時代には武具に使われています。室町時代中期には後藤家という金工家の一門が京都にあり、金工の象嵌技術はそこから全国へ広がっていきました。

  金沢では、前田家五代の綱紀の時代に発達しています。その時代の加賀藩は裕福で、全国の古書修復などを藩のお金で行っていました。同じ時代に藩直属の御細工所という所があり、そこでは武具の修理、藩主の調度品制作にあたっていました。その中に象嵌細工師もいました。象嵌細工師は鉄鐙や刀の装飾などにあたっていました。このような職人お抱えの制度が、五代藩主の頃から始まったのです。その時分は象嵌が第一級品で幕府やいろいろな藩にお土産として持って行かれたものでした。「使っても象嵌が取れない」と、大変喜ばれたということです。

  そういうふうにして、鐙や刀の鍔、三所物(目貫、笄、小柄)に象嵌が施され、職人たちは競って技術研鑽し、技術の発展をみました。しかし明治維新になると、お客であった武士がいなくなり、大変困ったらしいのです。武家社会がなくなったことで、需要がなくなったのです。ほとんどの職人たちは廃業したり転職していきました。残った職人も、刀装具に施していた象嵌を何に付けていくか随分と迷ったようです。隆盛していた金工師・山川家すらそうなのですから、大変な事態だったと思うのです。この混迷の中、金沢市の二代目市長が金沢銅器会社をつくり、象嵌職人の養成、輸出品の製造を行うことになりました。

  その時代の製品には、「東半球亜細亜洲中大日本帝国石川県下加賀国金沢銅器会社 水野源六、平岡忠蔵、山川孝次」と彫ってある物があります。これは製造者の銘で、当時この銅器会社で署名を許されていたのは3人だけでした。それは、水野源六と言って後藤家代々のお抱え職人、工場長だった山川孝次、平岡忠蔵の3人です。しかし、この銅器会社は十余年でなくなりました。理由は、売れなくてなくなったのではなく、大変売れて、工人たちが皆、個人個人でやりだしたのです。山川家は山川家、水野家は水野家で新しい人を集めお抱え職人とし、各家でやったと言われています。こうして、明治維新を乗り越えたのですが、もう一つ厳しい時代がありました。太平洋戦争の時です。どこの県も一緒なのですが、金属を扱う人がごく限られており、国の指定した人しか扱えませんでした。そのため、加賀の象嵌師もめっきり減ってしまったのです。

  私が象嵌を始めた昭和50年頃、金沢で制作している方は、2〜3人しかいなくなっていました。明治の初め頃には百人前後いました。それがだんだん減って、つくっても売るところがないということで、あれだけ象嵌によって繁栄していた山川家も昭和13年にやめてしまったのです。以上が歴史的な背景です。

 
象嵌朧銀盛器「あいう・・・」
ひらがなが、‘ゆき’‘はな’など季節を表現している。
  象嵌朧銀花器「鶴鳴き渡る」
象嵌朧銀盛器「あいう・・・」と一緒に、NHK「日本の工芸〈今〉100選」展のためパリの会場に展示されたもの。


第5回(最終回)へ